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演奏とダンスで感じる-南米アンデスの風-

総会後の地球理解講座には約60名が参加し、どこかなつかしさを感じる南米アンデス地方のフォルクローレ(民族音楽)を満喫しました。
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奏するM.S.K(エメ・エセ・カー)のみなさん

心地よい音楽と楽しいダンス

 南米アンデスの音楽と言えば 「コンドルは飛んでいく」、この曲と言えば 「ケーナ」、ケーナと言えば 「田中 健」ぐらいの知識しかない私でしたが 、今日M.S.K さん達の音楽を聴いて、その国の持っている民族性でしょうか、 同じ楽器で奏でていても、 賑やかな曲、 タイトルは悲しいのに 何故か心地良い曲、本当に素敵でした。楽器もサンポーニャ・ボンボ(毛の生えた太鼓)・チャランゴ(ウクレレそっくり)と初めて見る楽器もあり、名前も今日初めて知りました。この楽器で演奏された日本の楽曲も何故かアンデス風ですが、 何か懐かしい気持ちで 聴き入ってしまいました。まちゅぴちゅさんのダンスも可愛いかったです。最後にみんなでダンスして とても楽しい時間を過ごせました。(村田佐智子)

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カラフルな衣装のまちゅぴちゅのみなさん

<会場の声>
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●映像との組み合わせがよかった。南米アンデスの国々は音楽も似ている。●珍しい楽器をいろいろと見ることができ、楽しかった。ヒツジの爪を集めた楽器にはびっくりした。●時間をを忘れて楽しんだ。●(音楽の)敷居が低く、会場が一体となって楽しめた。

<アンデスの楽器たち>
リード(吹き口)のない縦笛ケーナ、管をいくつも束ねたサンポーニャ、ウクレレのようで物悲しい音色のするチャランゴ、毛の生えた大太鼓ボンボ…珍しいアンデスの楽器たちです。

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 左から、 ロンダドール、ギター(スペイン語はギターラ)、チャランゴ、ケナーチョ、マンドリン、サンポーニャ、ケーナ、サンポーニャ、ハッチャケーナ(後ろの女性が持っている大型のケーナ)、ボンボ、ケーナ

 

 

 

 

大正時代の女作者 田村俊子とその時代背景

Toshiko Tamura and the Historical Background
?A Woman Writer of Taisho Era ?
エイミー・オバマヤー/ニューヨーク大学
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 関西国際センター(文化・学術専門家コース)の研修生として、4月まで滞在していたエイミーさん。比較文学の博士課程で、20世紀初頭のラテンアメリカ文学と日本文学を研究テーマにしています。

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「日本の田村俊子と、オーロラ・カセレスという
ペルー人の作家とを比較しています」というエイミーさん

 田村俊子は、1910年代初めに名前が知られるようになりました。元々、幸田露伴に師事しましたが、ほどなく、新しい「私小説」という文学形式に出会って、師匠の文学形式から離れることを選択しました。「私小説」は、「わたくし小説」や「心境小説」と呼ぶこともあって、半自伝的な文学形式で書かれることが多いです。1911年『あきらめ』という小説が、大阪朝日新聞懸賞小説一等を受け、新聞に連載されました。

その後、『青鞜』というフェミニズムに関する雑誌の創刊をはじめ、色々な書籍、例えば『中央公論』や『少女画報』などで活躍しました。俊子は死ぬ直前まで書き続けましたが、「生血」や「女作者」、「木乃伊の口紅」といった初期の作品で知られています。晩年の作品も面白いのですが、私の研究では初期の作品に注目しています。特に、俊子の作品と先ほどお話した「私小説」のつながりは研究の重要なポイントです。

瀬戸内晴美氏によると、田村俊子は日本現代文学の中で最初の「女性職業作家」でした。5,000円紙幣の樋口一葉は俊子より有名だったにもかかわらず、文学で生計を立てられませんでした。俊子は文語体で書いた幸田露伴に師事しましたが、師匠と師匠の文学形式を離れてから、成功し始めました。つまり、自然主義の私小説を書きはじめてから、文壇で知られるようになったのです。

日本文学において自然主義の流行は長期間は続かず、現代では自然主義は「質が高い文学」とはみなされませんが、現代の文学でもその影響がよく見られます。モーパッサンやゾラといったヨーロッパの自然主義の作家の影響を受けて、自然の事実を観察したり、ヘンリー・ジェイムスの言葉である「猛烈な悲観主義と不潔なこと」を取り入れた最初の小説は1906年の島崎藤村の『破戒』でした。翌年、1907年に田山花袋の『蒲団』が出版されました。どちらもその時代の文学界に旋風を巻き起こしました。一般社会はそのような小説が多く出版されることを求めていました。

特に、『蒲団』のような「私小説」と呼ばれる自然主義文学が盛んになりました。「真実」という観念に基づいた私小説が広く知られ、評判になったことが女性作家にとって新しい可能性を開きました。

1914年に、文芸評論家であり、自然主義文学作家でもある正宗白鳥は田村俊子に対して「男では分からない女性の気持ちが時々出ている点で私はこの人の作物に興味を持っている」と書きました。つまり、女性のまことの経験と気持ちは女性だけが分かっていて、それを作品として記述することができるという意味です。

自然主義の理念として、その時代に女流文学が栄え始めたのは意外ではありません。日本の自然主義は個人と自己を中心にしていたので、ティム-ヤマムラ氏によれば、女性にとって 「中に住める自己の感覚」の必要性が明らかになりました。女性の特定の生きた経験に注目することを通して、自然主義は女性が社会で受けている差別などを明らかにしました。
そのような中で、1911年に『青鞜』という女性向けの文学雑誌が創刊されました。1911年から1916年にかけて出版され、一番最初の編集者である平塚らいてうをはじめ、様々な著名な女性が『青鞜』に携わりました。吉屋信子や与謝野晶子といった作家が『青鞜』に投稿しました。俊子は創刊号に「生血」という小説を投稿しました。

『青鞜』は元々、文学が中心でしたが、すぐに、フェミニストの政治的な内容が中心になりました。『青鞜』は女性の経験の特殊性に焦点を当てたので、女性やフェミニストの意識を喚起したことは当然の結果だったと考えられます。編集者として働きながら、平塚らいてうは自らを「新しい女」と宣言し始め、「新しい女」はすぐに社会全体で話題になりました。

新しい女というのは経済的に自立していて、政治的な意識を抱く女性の事でした。この頃、田村俊子は時々「新しい女」と呼ばれていましたが、自分ではそのように思っていませんでした。これは、俊子とらいてうの間で長く続いたよく知られた対立の根幹でした。

俊子は自分を新しい女と呼ぶのはどうして不本意だったのでしょうか。それはどのように彼女の作品と哲学に関連していたのでしょうか。

自然主義に対して俊子は矛盾する感情がありました。俊子の作品、特に初期の作品は、一般的に自分の生活や経験に基づいていたに違いない反面、典型的な自然主義ではなかったのです。奈良大学の光石亜由美氏によれば、一目見ると、俊子の作品は自然主義のように見えるのに、「自然主義のアンチテーゼとして出てくるもの」、つまり自然主義の枠の中にありますが、原因と結果が逆転しているのです。「女作者」という小説では、自然主義の文学形式を用いて、その時代の女を描いていますが、この女は自然な存在ではなく、演技をしていると言えます。更に俊子の作品は、文学が単に既存の「現代的な自己」を反映するだけでなく、色々な存在のし方を肉付けすることを通して、自己の構築過程に参加することを示しています。

ある意味で、俊子もらいてうもこの事実を認めています。例えば、らいてうの場合、高田晴美氏は、「新しい女」という「レッテルを利用し、世間だけでなく主体である女性たちのさらなる自覚を促そうとして」いると述べています。つまり、「新しい女」というレッテルを使うことを通して、新しい政治的な主観を生み出すことを期待しているのです。
その一方、俊子は自分の生活が作品の延長のように生きています。自分自身が芸術品なのです。

俊子の立場にしてみれば、自然主義が作品を書く上でいい機会になりましたが、逆に表現の限界にもなりました。これらの対立を理解することが俊子の作品を理解するための鍵になるのです。

 

サマーキャンプ ~アメリカの夏休み~

Summer Camp


アメリカの学生と日本の学生ではたくさん違う経験がある。大きな違いの一つは夏休みだ。アメリカの方が日本より夏休みが長い。一般的に夏休みは2、3ヵ月ぐらい続く。皆さんはこの時間に何をしていますか?色々な活動が出来ますね。例えば、旅行かサマースクールなどに行くことが出来る。何もしないことも出来る!(のんびり出来る!) でも、僕の国で一番人気がある活動はサマーキャンプだ。スポーツか芸術などのためにたくさんの種類のキャンプがある。
子供の時、僕は10歳から13歳までサマーキャンプに行った。このキャンプの目的は自然をよく分かって、自然と共に生活することである。このキャンプは森の奥の中だから、電気を使う物は少ない。テレビやパソコンや電話がない。両親に伝えたいなら、手紙を書かなければいけない。8週間に他の7人の男の子と2人の若い男の人と小屋に泊まった。毎日外で色々な活動をして、色々な役に立つ事を学んだ。山をたくさん登って、火の作り方を学んで、11日間カヌーで川を旅行した。その時から、自然がいつも大好きになった。(原文ママ)(ディラン/USA)ディランさんS2<来日して1年半のディランさん。日本語はゼロスタートでしたが、熱心にicaに通い、日本語能力試験N4に合格しました。特に、漢字に興味があるそうです>

2017年度ica日本語教室を振り返る

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ica日本語教室が発足してからすでに24年が経過。関空をはじめ泉佐野近辺での仕事のために在留する外国人の数の増加により、日本語教室においても、授業回数、学習者数ともに毎年増えてきていましたが、3月の移転に伴い、アクセス面や時間のやりくり等の面で不都合が発生するケースが見られ、減少に転じつつあります。また、第11期日本語指導者養成講座を修了した先生がデビューしました。

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2017年度「日本語教室定例会」  世話役/村上純一郎 村田佐智子 松本直子

昨年の4月、日本語定例会の世話役を引継ぎ、最初の仕事が「みんなで日本語はなしましょう」でした。発表してもらう学習者の先生への依頼や、決まってからのプログラム作りなどは事務局の方々の協力も大きく、私達は前日の準備だけで スムーズに発表会を開催する事が出来ました。その後の2ヵ月ごとの定例会は、「外国人の生活者の為の災害時の避難」「外国人にタブーなジェスチャー 会話」「先生方のおすすめ教材」等開催させていただきました。出席していただける先生は正直少なかったですが、参加していただけた先生からは企画を喜んでいただけたと思います。来年度は少し趣向を変えてみてはという事で 次の世話役さんにバトンタッチをします。
今回、世話役をさせていただいて思ったのは、世話役だけでなくたくさんの先生方の協力があって定例会があるんだという事です。4月からの新しい日本語定例会は皆様のご協力を頂き、学習者や先生方が交流できる会にできたらと切に願い、29年度の世話役を終えたいと思います。(文責:村田)

【2017年度日本語教室データ】(2017.4~2018.2)

<行なわれた授業数>
月平均 132.3クラス
日平均  6.5クラス
<年間学習者(実人数)>…111人
<年間指導者(実人数)>…46人

<学習者の出身国数> …25カ国
●アジア/インド、インドネシア、韓国、スリランカ、タイ、台湾、中国、バングラデシュ、フィリピン、ベトナム、ミャンマー、モンゴル
●アメリカ/USA、メキシコ、ブラジル、コロンビア、アンティグア・バーブーダ
●ヨーロッパ(NIS諸国含む)/ブルガリア、イギリス、スペイン、ドイツ
●オセアニア/オーストラリア
●中近東/シリア
●アフリカ/スーダン、ケニア

イスラム文化を知ろう?イスラム教ってほんとはどんなん??

Studying Islamic Culture
2月24日(土) ica


 2017年度に集中的に取り組んできた講座「イスラム文化を知ろう」シリーズ。最終回は、サラ クレシ好美さん(名古屋モスク渉外担当理事)を講師に迎え、イスラム教の教義や日本で生活するムスリム(イスラム教徒)の子どもたちが置かれている状況などについて、お話を伺いました。外国人を含む35名が参加し、関心の高さが感じられました。DSC_9415s<参加者アンケートより>

●ラマダンにしても、お祈りにしても、とても柔軟なことなんだなと思いました。イスラムが平和を大切にしている宗教だということ、中道ということ、知らなかったです。女性が大切にされていることも知らなかったです。ISとイスラムが全く違うことだということも知りました。色々なニュース、出来事を多角的に調べてみないと本当のことはわからないのかなあと思いました。

●私も最初はニュースからイスラムって怖いイメージがありましたが、現在国際交流をしてイスラムの友達もたくさんできました。インドネシア、アフリカ、その他の国の人、とてもいい友達ばかりです。だからニュースの一部分だけ見て悪いイメージを持ってしまうことはとても怖いと思いました。

●ムスリムの子どもたちの本音を聞いて、子を持つ親として心が引き裂かれそうな気持ちになりました。イスラムについて正しい知識・情報を得る必要があることを強く感じました。

●メディアに流されやすい日本ではありますが、このような「リアルな声」を聞ける機会が増えたらもっと国際理解につながり、生きやすい社会になるのではないかと改めて思いました。私も今日知った事を広めていきたいと思います。

●私が知っているイスラムとは大違い、本当のイスラムを知らない自分であることに驚くと同時に恥ずかしくなりました。固まっているメディアに対して疑問がわいて仕方ありません。参加させていただくことで新しく知ることができ、本当によかったです。メディアの見方が変わりました。