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みんなでにほんごはなしましょう

Japanese class presentation
2018.6.16(土)
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日本語教室発表会「みんなで にほんご はなしましょう」が6月16日(土)に開催され、約50人が参加しました。発表者は5カ国9名。自分の日本語のレベルに合わせて、スピーチや歌、小噺や寸劇を披露しました。

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<参加者のみなさんの感想>
●icaで毎週日本語の勉強をするとき、ほかの学生をあまり見ませんので、きょうはいろいろな国の学生と会って、とてもうれしかったです。(icaで)習っているいろいろな国の人と日本語で話をすることができる良い機会でした。(周恩駿くんのお母さん/中国)
●みなさんの努力、照れが手にとるように分かりました。発表の機会があるとよい区切りになり、また日本語上達も早まるかと思います。子供たちもとても愛らしかったです。(匿名)
●それぞれ工夫され、大切なメッセージがこめられていて、感動しました。思っていたような「堅苦しいスピーチ」ではなく、とても楽しかったです。(R.K.)
●落語・劇・歌などバラエティに富んだ日本語の発表で楽しかったです。(匿名)
●初めて参加しましたが、いろんな国の方のおもしろい話を聞くことができて楽しかったです。(M.O.)
●久しぶりのica参加でした。生徒さん達は新しいお顔。日本の方々はなつかしいお顔。いろいろな人々が集まって楽しい発表会でした。(Y.I.)

フランスへようこそ

『フランスへようこそ』という新講座が開講するとの事で、ドキドキ、ワクワクしながら参加させていただきました。入口で講師の中谷スネジャナ先生が、笑顔で温かく迎えて下さいました。
シャンソンが流れる中、パリの街並みを紹介する映像を鑑賞しながら授業が始まります。フランスの香り漂う中、アルファベッドの読み方、自己紹介等を学び、最後は皆で”オー・シャンゼリーゼ”を歌い、時の経つのも忘れるほど楽しい授業でした。次回の授業も、楽しみにしています。(佐藤広信・乃理子)

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~平成29年度専門日本語研修 外交官・公務員コース 感謝祭より~

ヌーの大移動
多くの野生生物が生息しているケニア。有名なヌーの川渡りを見るツアーもありますが、料金が高くケニアの人もなかなか見ることができないそうです。(A)

第2の肺
アマゾンに次いで、世界第2位の熱帯雨林の広さをもつコンゴ民主共和国。「地球の第2の肺」と呼ばれています。(U)

魚の雨
ホンジュラスでは、5月に魚の雨が降ります。落ちてきた魚を、拾って食べる人もいるそうです。どうして、そんな現象が起こるのかは、わかっていないそうです。(U)

サムライ・弥助
1579年ごろ、黒人の侍が織田信長に仕えていました。「弥助」という名前を与えられた彼は、アフリカ・モザンビークの出身だったそうです。(U)

ミャンマーのお正月
日本では大そうじをし、年越しそばを食べて迎えるお正月。ミャンマーでは、皆で水の掛け合いをして1年の終わりを祝い、水で清め、そして正月元日(4月17日)を迎えるのだそう。(T)

100万頭の象の国
1955年に国交を結んだラオスと日本。その後ラオスから日本に象が贈られ、日本からラオスには桜の木が贈られました。(T)

世界最長の列車
モーリタニアには最大240両の貨車をつないだ、全長が3㎞にもなる列車が走っています。鉄鉱石を運ぶためのもので、世界最長と言われています。(N)

イラクの魚料理
一匹1kgほどもある川魚を炭火焼きにするそうですが、あまりのおいしさに、1~2人で食べてしまうとか。それほどおいしい魚、ぜひ食べてみたいです。(T)

動物にも祝福を!
ネパールの祭り「ティハール」では、カラス・犬・牛にも感謝して祈ります。カラス→神の使い、犬→家を守る動物、牛→ヒンズーの神様だからだそうです。(T)

演奏とダンスで感じる~南米アンデスの風~

総会後の地球理解講座には約60名が参加し、どこかなつかしさを感じる南米アンデス地方のフォルクローレ(民族音楽)を満喫しました。
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奏するM.S.K(エメ・エセ・カー)のみなさん

心地よい音楽と楽しいダンス

 南米アンデスの音楽と言えば 「コンドルは飛んでいく」、この曲と言えば 「ケーナ」、ケーナと言えば 「田中 健」ぐらいの知識しかない私でしたが 、今日M.S.K さん達の音楽を聴いて、その国の持っている民族性でしょうか、 同じ楽器で奏でていても、 賑やかな曲、 タイトルは悲しいのに 何故か心地良い曲、本当に素敵でした。楽器もサンポーニャ・ボンボ(毛の生えた太鼓)・チャランゴ(ウクレレそっくり)と初めて見る楽器もあり、名前も今日初めて知りました。この楽器で演奏された日本の楽曲も何故かアンデス風ですが、 何か懐かしい気持ちで 聴き入ってしまいました。まちゅぴちゅさんのダンスも可愛いかったです。最後にみんなでダンスして とても楽しい時間を過ごせました。(村田佐智子)

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カラフルな衣装のまちゅぴちゅのみなさん

<会場の声>
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●映像との組み合わせがよかった。南米アンデスの国々は音楽も似ている。●珍しい楽器をいろいろと見ることができ、楽しかった。ヒツジの爪を集めた楽器にはびっくりした。●時間をを忘れて楽しんだ。●(音楽の)敷居が低く、会場が一体となって楽しめた。

<アンデスの楽器たち>
リード(吹き口)のない縦笛ケーナ、管をいくつも束ねたサンポーニャ、ウクレレのようで物悲しい音色のするチャランゴ、毛の生えた大太鼓ボンボ…珍しいアンデスの楽器たちです。

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 左から、 ロンダドール、ギター(スペイン語はギターラ)、チャランゴ、ケナーチョ、マンドリン、サンポーニャ、ケーナ、サンポーニャ、ハッチャケーナ(後ろの女性が持っている大型のケーナ)、ボンボ、ケーナ

 

 

 

 

大正時代の女作者 田村俊子とその時代背景

Toshiko Tamura and the Historical Background
~A Woman Writer of Taisho Era ~
エイミー・オバマヤー/ニューヨーク大学
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 関西国際センター(文化・学術専門家コース)の研修生として、4月まで滞在していたエイミーさん。比較文学の博士課程で、20世紀初頭のラテンアメリカ文学と日本文学を研究テーマにしています。

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「日本の田村俊子と、オーロラ・カセレスという
ペルー人の作家とを比較しています」というエイミーさん

 田村俊子は、1910年代初めに名前が知られるようになりました。元々、幸田露伴に師事しましたが、ほどなく、新しい「私小説」という文学形式に出会って、師匠の文学形式から離れることを選択しました。「私小説」は、「わたくし小説」や「心境小説」と呼ぶこともあって、半自伝的な文学形式で書かれることが多いです。1911年『あきらめ』という小説が、大阪朝日新聞懸賞小説一等を受け、新聞に連載されました。

その後、『青鞜』というフェミニズムに関する雑誌の創刊をはじめ、色々な書籍、例えば『中央公論』や『少女画報』などで活躍しました。俊子は死ぬ直前まで書き続けましたが、「生血」や「女作者」、「木乃伊の口紅」といった初期の作品で知られています。晩年の作品も面白いのですが、私の研究では初期の作品に注目しています。特に、俊子の作品と先ほどお話した「私小説」のつながりは研究の重要なポイントです。

瀬戸内晴美氏によると、田村俊子は日本現代文学の中で最初の「女性職業作家」でした。5,000円紙幣の樋口一葉は俊子より有名だったにもかかわらず、文学で生計を立てられませんでした。俊子は文語体で書いた幸田露伴に師事しましたが、師匠と師匠の文学形式を離れてから、成功し始めました。つまり、自然主義の私小説を書きはじめてから、文壇で知られるようになったのです。

日本文学において自然主義の流行は長期間は続かず、現代では自然主義は「質が高い文学」とはみなされませんが、現代の文学でもその影響がよく見られます。モーパッサンやゾラといったヨーロッパの自然主義の作家の影響を受けて、自然の事実を観察したり、ヘンリー・ジェイムスの言葉である「猛烈な悲観主義と不潔なこと」を取り入れた最初の小説は1906年の島崎藤村の『破戒』でした。翌年、1907年に田山花袋の『蒲団』が出版されました。どちらもその時代の文学界に旋風を巻き起こしました。一般社会はそのような小説が多く出版されることを求めていました。

特に、『蒲団』のような「私小説」と呼ばれる自然主義文学が盛んになりました。「真実」という観念に基づいた私小説が広く知られ、評判になったことが女性作家にとって新しい可能性を開きました。

1914年に、文芸評論家であり、自然主義文学作家でもある正宗白鳥は田村俊子に対して「男では分からない女性の気持ちが時々出ている点で私はこの人の作物に興味を持っている」と書きました。つまり、女性のまことの経験と気持ちは女性だけが分かっていて、それを作品として記述することができるという意味です。

自然主義の理念として、その時代に女流文学が栄え始めたのは意外ではありません。日本の自然主義は個人と自己を中心にしていたので、ティム-ヤマムラ氏によれば、女性にとって 「中に住める自己の感覚」の必要性が明らかになりました。女性の特定の生きた経験に注目することを通して、自然主義は女性が社会で受けている差別などを明らかにしました。
そのような中で、1911年に『青鞜』という女性向けの文学雑誌が創刊されました。1911年から1916年にかけて出版され、一番最初の編集者である平塚らいてうをはじめ、様々な著名な女性が『青鞜』に携わりました。吉屋信子や与謝野晶子といった作家が『青鞜』に投稿しました。俊子は創刊号に「生血」という小説を投稿しました。

『青鞜』は元々、文学が中心でしたが、すぐに、フェミニストの政治的な内容が中心になりました。『青鞜』は女性の経験の特殊性に焦点を当てたので、女性やフェミニストの意識を喚起したことは当然の結果だったと考えられます。編集者として働きながら、平塚らいてうは自らを「新しい女」と宣言し始め、「新しい女」はすぐに社会全体で話題になりました。

新しい女というのは経済的に自立していて、政治的な意識を抱く女性の事でした。この頃、田村俊子は時々「新しい女」と呼ばれていましたが、自分ではそのように思っていませんでした。これは、俊子とらいてうの間で長く続いたよく知られた対立の根幹でした。

俊子は自分を新しい女と呼ぶのはどうして不本意だったのでしょうか。それはどのように彼女の作品と哲学に関連していたのでしょうか。

自然主義に対して俊子は矛盾する感情がありました。俊子の作品、特に初期の作品は、一般的に自分の生活や経験に基づいていたに違いない反面、典型的な自然主義ではなかったのです。奈良大学の光石亜由美氏によれば、一目見ると、俊子の作品は自然主義のように見えるのに、「自然主義のアンチテーゼとして出てくるもの」、つまり自然主義の枠の中にありますが、原因と結果が逆転しているのです。「女作者」という小説では、自然主義の文学形式を用いて、その時代の女を描いていますが、この女は自然な存在ではなく、演技をしていると言えます。更に俊子の作品は、文学が単に既存の「現代的な自己」を反映するだけでなく、色々な存在のし方を肉付けすることを通して、自己の構築過程に参加することを示しています。

ある意味で、俊子もらいてうもこの事実を認めています。例えば、らいてうの場合、高田晴美氏は、「新しい女」という「レッテルを利用し、世間だけでなく主体である女性たちのさらなる自覚を促そうとして」いると述べています。つまり、「新しい女」というレッテルを使うことを通して、新しい政治的な主観を生み出すことを期待しているのです。
その一方、俊子は自分の生活が作品の延長のように生きています。自分自身が芸術品なのです。

俊子の立場にしてみれば、自然主義が作品を書く上でいい機会になりましたが、逆に表現の限界にもなりました。これらの対立を理解することが俊子の作品を理解するための鍵になるのです。