大正時代の女作者 田村俊子とその時代背景

Toshiko Tamura and the Historical Background
~A Woman Writer of Taisho Era ~
エイミー・オバマヤー/ニューヨーク大学
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 関西国際センター(文化・学術専門家コース)の研修生として、4月まで滞在していたエイミーさん。比較文学の博士課程で、20世紀初頭のラテンアメリカ文学と日本文学を研究テーマにしています。

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「日本の田村俊子と、オーロラ・カセレスという
ペルー人の作家とを比較しています」というエイミーさん

 田村俊子は、1910年代初めに名前が知られるようになりました。元々、幸田露伴に師事しましたが、ほどなく、新しい「私小説」という文学形式に出会って、師匠の文学形式から離れることを選択しました。「私小説」は、「わたくし小説」や「心境小説」と呼ぶこともあって、半自伝的な文学形式で書かれることが多いです。1911年『あきらめ』という小説が、大阪朝日新聞懸賞小説一等を受け、新聞に連載されました。

その後、『青鞜』というフェミニズムに関する雑誌の創刊をはじめ、色々な書籍、例えば『中央公論』や『少女画報』などで活躍しました。俊子は死ぬ直前まで書き続けましたが、「生血」や「女作者」、「木乃伊の口紅」といった初期の作品で知られています。晩年の作品も面白いのですが、私の研究では初期の作品に注目しています。特に、俊子の作品と先ほどお話した「私小説」のつながりは研究の重要なポイントです。

瀬戸内晴美氏によると、田村俊子は日本現代文学の中で最初の「女性職業作家」でした。5,000円紙幣の樋口一葉は俊子より有名だったにもかかわらず、文学で生計を立てられませんでした。俊子は文語体で書いた幸田露伴に師事しましたが、師匠と師匠の文学形式を離れてから、成功し始めました。つまり、自然主義の私小説を書きはじめてから、文壇で知られるようになったのです。

日本文学において自然主義の流行は長期間は続かず、現代では自然主義は「質が高い文学」とはみなされませんが、現代の文学でもその影響がよく見られます。モーパッサンやゾラといったヨーロッパの自然主義の作家の影響を受けて、自然の事実を観察したり、ヘンリー・ジェイムスの言葉である「猛烈な悲観主義と不潔なこと」を取り入れた最初の小説は1906年の島崎藤村の『破戒』でした。翌年、1907年に田山花袋の『蒲団』が出版されました。どちらもその時代の文学界に旋風を巻き起こしました。一般社会はそのような小説が多く出版されることを求めていました。

特に、『蒲団』のような「私小説」と呼ばれる自然主義文学が盛んになりました。「真実」という観念に基づいた私小説が広く知られ、評判になったことが女性作家にとって新しい可能性を開きました。

1914年に、文芸評論家であり、自然主義文学作家でもある正宗白鳥は田村俊子に対して「男では分からない女性の気持ちが時々出ている点で私はこの人の作物に興味を持っている」と書きました。つまり、女性のまことの経験と気持ちは女性だけが分かっていて、それを作品として記述することができるという意味です。

自然主義の理念として、その時代に女流文学が栄え始めたのは意外ではありません。日本の自然主義は個人と自己を中心にしていたので、ティム-ヤマムラ氏によれば、女性にとって 「中に住める自己の感覚」の必要性が明らかになりました。女性の特定の生きた経験に注目することを通して、自然主義は女性が社会で受けている差別などを明らかにしました。
そのような中で、1911年に『青鞜』という女性向けの文学雑誌が創刊されました。1911年から1916年にかけて出版され、一番最初の編集者である平塚らいてうをはじめ、様々な著名な女性が『青鞜』に携わりました。吉屋信子や与謝野晶子といった作家が『青鞜』に投稿しました。俊子は創刊号に「生血」という小説を投稿しました。

『青鞜』は元々、文学が中心でしたが、すぐに、フェミニストの政治的な内容が中心になりました。『青鞜』は女性の経験の特殊性に焦点を当てたので、女性やフェミニストの意識を喚起したことは当然の結果だったと考えられます。編集者として働きながら、平塚らいてうは自らを「新しい女」と宣言し始め、「新しい女」はすぐに社会全体で話題になりました。

新しい女というのは経済的に自立していて、政治的な意識を抱く女性の事でした。この頃、田村俊子は時々「新しい女」と呼ばれていましたが、自分ではそのように思っていませんでした。これは、俊子とらいてうの間で長く続いたよく知られた対立の根幹でした。

俊子は自分を新しい女と呼ぶのはどうして不本意だったのでしょうか。それはどのように彼女の作品と哲学に関連していたのでしょうか。

自然主義に対して俊子は矛盾する感情がありました。俊子の作品、特に初期の作品は、一般的に自分の生活や経験に基づいていたに違いない反面、典型的な自然主義ではなかったのです。奈良大学の光石亜由美氏によれば、一目見ると、俊子の作品は自然主義のように見えるのに、「自然主義のアンチテーゼとして出てくるもの」、つまり自然主義の枠の中にありますが、原因と結果が逆転しているのです。「女作者」という小説では、自然主義の文学形式を用いて、その時代の女を描いていますが、この女は自然な存在ではなく、演技をしていると言えます。更に俊子の作品は、文学が単に既存の「現代的な自己」を反映するだけでなく、色々な存在のし方を肉付けすることを通して、自己の構築過程に参加することを示しています。

ある意味で、俊子もらいてうもこの事実を認めています。例えば、らいてうの場合、高田晴美氏は、「新しい女」という「レッテルを利用し、世間だけでなく主体である女性たちのさらなる自覚を促そうとして」いると述べています。つまり、「新しい女」というレッテルを使うことを通して、新しい政治的な主観を生み出すことを期待しているのです。
その一方、俊子は自分の生活が作品の延長のように生きています。自分自身が芸術品なのです。

俊子の立場にしてみれば、自然主義が作品を書く上でいい機会になりましたが、逆に表現の限界にもなりました。これらの対立を理解することが俊子の作品を理解するための鍵になるのです。